ちゅらしっくわーるど

ことりの話し・日々の気づきを宙ららの世界観で綴ります

《善行と仏と悟りに思うこと》

【ポエム•物語り】
《ちゅらしっくわーるど》〜宙ららの世界観の物語りです

《善行と仏と悟りに思うこと》
冒頭に述べました通り、これはあくまで宙ららの世界観の物語りですので悪しからずに願います。

お釈迦さまは”人間がする善行に一切の見返りを求めぬ施しは無いので、真(まこと)の善はない。故に人間がいくら善を積んだとしても、どんな修行をしても人間が悟りをひらくことも仏になることも出来ないのだ”というようなことをおっしゃられたと伺いました。

そのことばを聞いて、お釈迦さまは修行の末に悟りをお開きになったのに何故そのようなことを言われたのかと疑問に思いました。自分なりに色々考えました。多分そういうことなのかなと思うことはあります。何もわかりもしない者が何をいっているんだ。と諭し叱られてもおっしゃる通りだと思います。ですが、わたしとしてはそれをいわれてしまっては元も子もない気持ちになって仕方がないのです。

これから生きようと産まれたばかりの赤ちゃんに”生まれてきてなんですがあなたは遅かれ早かれいずれ④にますよ。”と言い聞かせるようなものではないでしょうか。

この世で目に見えて生きる全てのものには魂の器が必要です。人間にも肉体があります。肉体がある限り苦痛や快楽などあらゆるものに縛られます。この物質世界では欲(煩悩)に悩み惑わされ溺れることも幾多とあるでしょう。そして肉体がある者にはいつか誰にでも等しく④が訪れます。この世で生きるということは一回きりで簡単に失う大切な命を人質に取られているようなものです。生老病死。人が生きていく過程には多くの困難や湧き起こる欲や誘惑、あらゆる災難、不公平、理不尽なことなどが山ほどあります。そのような中で真(まこと)の善(何の見返りをも求めぬ仏の心での行)を行うことは極めて困難なことで有り難い。とおっしゃるのならべつですが『無い』といわれてしまうと、元も子もない気持ちになってしまいます。「お釈迦さま御免なさい。」

人間は悟りを開き仏のまま生涯を生き抜くことは残念ながら出来ないのだと思います。ですが、修行によって善行や悟りを授かることはあると思います。人間にも仏が宿る瞬間はあると思います。
自分では見返りを求めぬ無償の善の行いをした後に良からぬ結果を目の当たりにした時に「それでも良し」「仕方がない」と気にならないことや割り切って流せることも人にだってあるかと思います。大抵の場合「こんなことなら…」という見返りを求める気持ちや「情けない…」と後悔の念が湧いてきたとしても、善を行ったその瞬間に無償の善、真(まこと)の善で行ったのは素晴らしいことだと思います。また、最初からどこかに見返りがあったとしてもお釈迦さまのいわれる偽りの善を行う内に真(まこと)の善に少しずつでも近づければ良いのだと思います。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』にもあるように、お釈迦さまが垂らした施しの糸が切れたのを見たのちに「なんと…情けない…」と思う気持ちになられることがお釈迦さまにもあるのではないでしょうか。あれは物語りの中だけのことだったのでしょうか。

人の心にも仏が宿ることがあると信じます。

人はいざというときに…、大切な何かを守るために…、誰かを助けるために…、咄嗟に、我を忘れて、無意識のうちに、無償で施す善があります。そうと思わずに施す些細な善もあります。無償で願う心があります。無償で流す涙があります。何の見返りもなく施す善があります。生涯の仏にはなれなくてもいざという時、ここぞという時、何気ない時に、一瞬でもひと時でも仏が宿れば良いと思います。『3分間のウルトラマン』のように3分間でも仏が宿る『3分間の仏さま』であっても良いと思います。

ここで思い出した話しがあります。栗 良平さんの『一杯のかけそば』の話しには自然と涙がこぼれます。その流した涙は、ほんの一瞬でも心にささやかな仏が宿った証だと思います。何度か聞いて知っている気になっていた話しでしたがその記憶のなんと薄っぺらいことか。改めて感動しました。【ネタバレ注意】1972年 北海道の札幌にあるそば屋「北海亭」での、大晦日の晩の話し。実話に基づく話しだそうです。猫の手も借りたいほど忙しい書き入れ時に貧しそうな母子三人が店にやってきて一杯だけでも作ってもらえますか…と申し訳なさそうに母親がご主人にたずね一杯のかけそばをたのみます。ご主人のはからいで他のお客もいることですし、あからさまに多くしては気づかれて母子が気をもむことがないようにと皆に気付かれぬようこっそりと半玉だけ多くそばを作ります。それでも三人で僅か一杯のかけそばでは腹がみたされぬものを皆で幸せそうにすすり分け合い食べている。読み進めていくと何ともいえない穏やかで優しく温かな空気感に包まれていきます。また、そば屋「北海亭」のご主人とおかみさんの粋なはからいにも心が打たれます。その母子のわけ合い互いを思いやる気持ちや、そば屋の無償の施しの心にも仏が宿っていたことでしょう。やがて食べ終え、母子三人でたった一杯150円のかけそば代を払うと『ごちそうさまでした…』と、頭を下げながら暗く寒い店の外へ出ていく母子に、『ありがとうございました。どうかよいお年を!』と他のお客と変わらずに威勢の良い声をかけ温かく見送るご主人とおかみさん。なかなか出来たことではありません。今度きちんと手にとってその続きも読んでみようと思います。